Mr.トーマのアニマリュージョン!ブログ

アニマリュージョン!は熊本県阿蘇のカドリー・ドミニオンで行われているファンタジックアニマルショーです。このブログではショーだけに関わらず、広く地域情報や動物訓練に関しての話題を提供しております。

叱ることの不快感とマイナスイメージ

よくある話ですが、例えば電車の中で騒ぐ子供がいるとします。

近くにいる大人のおじさんが、イヤそうな顔をして「えへん!」と咳払いをします。それに気づいた子供の母親が言います。「ほら、オジちゃんが怒っているでしょ。叱られるからこっちに来なさい。」

電車の中の周りのみんなは、口にこそ出さないけど、「お前が叱れよ。オジちゃんのせいにすんじゃねえ!」って思います。

 

かたや、同じシュチュエーションで、子供が騒ぐとします。その子の母親が「こら、公共の場で騒ぐんじゃないのよ!もう。じっとしておきなさいっ!」と叱って、子供が泣いちゃうとします。

電車の中の周りのみんなは、口にこそ出さないけど、「まだ年端もいかない子供に、ヒステリックに怒るんじゃねえ!お前の方がうるせえ!」って思います。

 

さらに同じシュチュエーションで、母親が子供を何とかなだめようと平和的解決の努力をしていると、「早く黙らせやがれ!」って思われていたりして。

 

母親はこの場合、どうすりゃいいんでしょうね。

「そもそも、躾がなってねえ!」なら、人がいない静かな環境であらかじめ叱っておけばいいのでしょうか。

 

一つ言えることは、体罰かどうか別にして、叱ることは絶対に必要なのに、人は、弱い人が強い人に叱られているところを見るとなんか腹がたつんです。私は、そうです。動物に対しても、そうです。叱る重要性は十分わかっているんです。でも昔から、新人さんが動物を叱っていると、本音ではなんかムカつくんです。

 

叱らないで済むなら、絶対にその方がいいんです。

だから、自分の中で51:49くらいの究極の選択で、どちらかというと叱らない方がいいとなっちゃいます。100人の人がいたら、98人以上はやはり僅差であろうが、大差だろうが、「叱らない方がいい」となると思います。

 

すると・・・今年のキングオブコントの採点みたいな現象が起きるんです。

対戦する2組は本当に僅差なのに、審査員一人一人が究極の選択を迫られた結果、どちらかにしか票が入れられないから、ものすごく大差がついた印象になっちゃう。

こうなると、負けた方はみじめです。私は、子供のいじめ問題もこのほんの少しの僅差が大きな差になることから始まるんじゃないかと考えますが、それは論理の飛躍だと言われても仕方ないので、これはいつか機会があれば別に書こうと思います。

 

叱る話には、絶対に触れない方がいいんです。でも、どうも私は逆判官びいきというのか、少数意見と思われる方に反応しちゃうんですね。天邪鬼なのでしょうね。

 

動物には、「言って聞かせる」ことが出来ませんから、罰と言えば体罰を指します。「威圧」や「無視」というのもありますが、「叱る」というイメージと無視はなんか結びつきません。

「威圧」は、それだけで効果があるのかどうかは疑問です。効果があるとして、体罰が伴わなかったら相当なじめじめとした針のムシロ状態にしないといけないし、そういう精神的苦痛は体罰以上の罰だと思います。それこそ、イジメです。

かたや「天罰方式」ってのがあるんですね。これも有効だし、いつか別に書こうとは思います。今、簡単に言うと、犬が机の脚をかじったら、絶対に自分がやっていると悟られないように、机をガタガタッと揺らしてびっくりさせるんです。

重要なテクニックですが、心情的には「もっと自分が悪者になろうよ」って思います。

 

一昔前は、犬の訓練に餌を使うのは邪道だという人が数多くいました。

そして、餌を使わない人に限って、使う人に対して「そんなの本当の信頼関係じゃないけど、餌使っちゃえばすぐになんでも覚えるから、反則じゃん。」と、心のどこかで思っているフシがありました。私は、一番最初のキャリアがクマで、クマは餌を使うのが当たり前だったので、むしろそこに軽いコンプレックスがありました。

 

叱らないという人の中でも、心のどこかで「邪道だからそれはしないけど、叱っちゃえば何でも覚えるから、反則じゃん」と、思っている人もいるのではないかと思います。本当はもちろん、叱ることの方が難しいと思います。

 

今の学校は、体罰禁止です。生徒もそれを知っています。せめて、体罰禁止だということを生徒に内緒にするだけでも、もっと先生の言うことを聞くようになるんじゃないかと考えたりしますが、それも教育に反するんでしょうか。

 

結局私は、この「叱ること」と「他者をコントロールすること」に対して考える為に、いろんな宗教や精神世界の研究までしているような気がします。答えは、あるんでしょうかね。

 そして、考えに考え抜いて、自分の手も汚してみて、その結果やっぱり自分のしてきたことは悪だと思ったら、最後は牧師さんでもお坊さんでもなってやるって気持ちもあります。傾奇者の前田慶次じゃありませんが。

 

・・・さてと。志村けんのバカ殿様のビデオでもみよっと。